長崎から発信のえびす、恵比須、恵比寿、ゑびす様

深堀氏は、本姓は、鎌倉幕府創設以来の豪族三浦氏で、上総国深堀(千葉県大原町深堀)の地を本拠としていた。

能仲は承久の変の勲功によって、最初は摂津国吉井荘の地頭に任ぜられたが、建長2年(1250年)には、甘木(福岡県甘木市)の地頭に変更され、さらに戸八浦(戸町浦)の地頭職に転じている。

ところが、大番交名の彼杵荘御家人の中に戸町藤次の名があるようにこの戸八浦は、戸町氏が本主として支配していた。
新地頭の深堀氏は、徐々に戸町氏の勢力を排除し、ついにこの地方を支配した。
以来、蒙古襲来、南北朝の混乱期を生きのび、明応(1492~1501)ころには有馬貴純と結び、中世豪族へと成長していった。

一六代善時の室・真法尼は西郷純賢を養子とし、西郷氏との関係を深めた。元亀二年(1571)に開港した長崎を西郷氏と深堀氏の連合軍が、数度にわたって攻撃し、大村純忠や長崎純景を、おびやかした。しかし、豊臣秀吉の九州征伐に西郷氏が徹底抗戦したのに対し、深堀氏は服従し、本領を安堵された。十九代茂賢は、佐賀本藩の重臣・石井安芸守の二男であったため、以後、佐賀藩との関係を深め、姓も鍋島と改めた。

江戸時代を通じて、深堀氏は佐賀藩の家老格として、彼杵郡14ヵ村高来郡10ヵ村三根郡(一部)など6000石を領した。

出典「長崎辞典・歴史編」(株)長崎文献社発行1988年度版より